• 宮崎 勇気

(3)人間の“無限の可能性”


3.人間大事の経営

1)松下幸之助の人間観 

(3)人間の“無限の可能性”

松下幸之助は、このような使命を与えられた“人間”は、「万物の王者ともいうべき偉大にして崇高な存在」(「実践経営哲学」p.32)であり、誰もが「磨けば光る無限の可能性を持つダイヤモンドの原石のようなもの」だと考えた。曰く、「生成発展という自然の理法に従って、人間自らを生かし、また万物を活用しつつ、共同生活を限りなく発展させていくことができる。そういう天与の本質を持っているのが、人間だと考えるのである。」(「実践経営哲学」pp.32-33)

ここで、松下幸之助は、“人間”を、宇宙や自然、社会の生成発展を実現するという“使命”を与えられた“主体者”であり、“事業の経営”というものは、そのような使命を実現するための手段であるということを明確にし、その使命実現のため人間には“無限の可能性”が与えられているのだという、極めてスケールの大きい人間観を展開し、人間の可能性を無限大に拡大しているところに大きな特徴がある。

1985年の科学万博つくばに出品されたハイポニカトマトは、一本の苗から一万数千個の実をつけた。このトマトを育てた野沢重雄氏は、バイオ技術を一切使わず、太陽の光と栄養分を含んだ水だけで育てたのは驚きだ。さらに、その発想が、実にユニークである。即ち、“作物の栽培では、土が不可欠である”という従来の常識に反し、むしろトマトの潜在的な成長力が根を包み込んでいる“土”によって抑えられていると考え、“根を土から解放する”ことで、その制約を外して自然の恵みを十分に受けさせたのだ。

このように成長の阻害因子を取り除けば、トマトは無限と言ってもよいほどの成長と遂げた。では、人間の場合はどうか?

人間も阻害因子があって、それが無限の可能性を抑え込んでいると考えられないであろうか?

この点について、遺伝子の研究で有名な筑波大学名誉教授の村上和雄氏は、“自然に反するものの考え方”が人間の能力をおさえる阻害因子となっているのではないかとの仮説を唱えている。それは、遺伝子が、“自然の法則”に合致したときに、生命を守り、生命を育んで、楽しませる方向に働くという事実に基づいている。そして、具体的には、「志を高く」「感謝して生きる」「プラス発想をする」の3つを挙げている。(「生命の暗号」村上和雄著pp.207-209より)

村上名誉教授の言う自然の法則に合致するということ及びその要素として挙げられた3つの条件は、正に松下幸之助の言う「自然の理法に従うこと」、「社会の発展の原動力となるとの使命を正しく認識すること」「一商人たるの観念を忘れず」の3つ目の要素である「感謝の心を忘れない」「より明るい物の考え方を選ぶ」ということと見事に合致している。

つまり、村上仮説によれば、松下幸之助の経営哲学は、まさに人間の能力を抑えている“阻害因子”を取り除き、その潜在能力を如何なく発揮させるものだということになる。

村上名誉教授は、さらに、人間の潜在能力が発揮されるメカニズムについて、遺伝子との関係で、次のように述べている。「人間の能力はあらかじめ遺伝子に書かれてあり、それ以外のことはできない。ただ、人間の遺伝子の中で実際に働いている遺伝子は、わずか5%程度で、他の大部分(95%)はOFFになって眠ったままの状態におかれています。従って、有限と言っても、私たちの頭で考える有限の枠とは次元が違う。まずどのようなことでも可能性はある。無限と思ってもさしつかえありません。そして、遺伝子の働きは、“宿命的固定的なもの”ではなく、それを取り巻く環境や外からの刺激によって変わってくる。例えば、それまで眠っていた遺伝子が目を覚ますということもありうるということが最近の遺伝子研究により、わかってきた。~私たちはみんな素晴らしい可能性を持って生まれてきていると思います。ですから、まずその事実を知り、そして、将来の可能性をまず信じることです。」(村上和雄著「生命の暗号」pp.72-73より)

松下幸之助は、自身の体験から、この人間に与えられた“無限の可能性”に気づき、それを心から信じたのである。  脳科学者の茂木健一郎氏も、脳科学の立場から、人間の“無限の可能性”について、次のように述べている。曰く、「脳にはオープンエンドという性質がある。“自分はこうだ”と決めつけなければ、いつまでも発展し続けることができる。逆に“自分なんてこんなものだ”決めつけた瞬間に脳は発展することを止めてしまう。」(茂木健一郎著「脳が変わる生き方」p.158)人間の無限の可能性を押さえ込んでいるのは、人間自身の“思い込み”であり、“自ら置いた自分の限界”に他ならないと言うのである。

私たちは、往々にして自分で自分の“限界”をつくって、自分の可能性を潰してしまう。二度三度何かに挑戦してみたが、うまくいかないと「これは無理だ」「自分にはできない」と決めつけてしまうのだ。

それは、見方を変えれば、“自分自身をどういう人間だと考えているか”という“自己イメージ”の問題でもある。うまくいかない度に、“自分は、こんなことはできない人間だ”というような、自分を制約する“低い自己イメージ”を繰り返し思うことによって、それが“信念”となる。人間の無意識は、自分の“信念”(自分が自分の頭の中に “真実”であるとして記憶しているもの)に従って、自動的にその信念が現実化するような“判断”を下し、“行動”するようにできていると言われる。「私とはこういう人間だ」と信じる“自己イメージ”は、自分自身に関する“信念”である。従って、私たちは、自分が“信念”として持つ“自己イメージ”に沿って、物を考え行動することとなる。それ故、“自己イメージ”は“限界”を画する機能をも持つ。たとえそれが実際には存在しない“思い込み”によるものであっても、自ら置いた“仮想の限界”は、その人にとっては“真実”であるから、そのような“限界”が実際に存在するものとして機能し、決してそれを超えることはできないのだ。

この点、松下幸之助は、次のように述べている。「物事というものは、できることでもそれを「できない」と思っている限り、やはり実際にできないのではあるまいか。~少々のことでできないと考えることは、むしろ人間のすぐれた可能性を押しつぶしてしまうことにもなるのではなかろうか。」つまり「“できない”では、できない」というわけである。

実際“自分にはできない”と考えている限り、そもそも自分からやろうとはしないし、万一やるとしても、うまくいかないのではないかとの“疑い”や“不安”、“恐れ”が常に付きまとい、意識が分散して集中することができず、自分の実力を100%出し切ることができない。その結果、やはりできなかったということにもなる。

そうだとすれば、逆に、私たち人間が"無限の可能性"を心から信じるということは、“何らの制約のない無限大の自己イメージ”を持つことを意味し、自分の“可能性の枠”を無限大に拡げるという効果を生む。

松下幸之助の言う“人間観”は、見方を変えれば“人類共通の自己イメージ”とも言える。即ち、人間は誰もが“無限の可能性”を持っているのだという“人間観”を心から信じて、それを“信念”として持つことによって、自分もそのような人間であるとして、“自己イメージ”をも無限大に拡げることとなるのである。すると、無意識にそして自動的にその“信念”、つまり「人間の無限の可能性」を実現する方向で、物事を考え、判断し、行動するようになる。その結果、少なくとも自分で自分に“制約”を付けたり、自分の“限界”を置いたりするということはなくなり、少々うまく行かないからと言って「自分にはできない」と簡単に決めつけて自分の可能性を潰してしまうということはなくなるのである。

ここに、松下幸之助の提唱する“人間観”を持つことの実践的な意義と機能があると言える。

この点、松下幸之助は、次のように述べている。曰く、「今日はこれで最善と思っていたことでも、これはまだ最善ではない、まだ他に道があるかもしれないというふうに考えれば、道はやはり無限にある。そして~際限なく進歩していくと思う。しかし、“これはそんなものだろう”ということで自ら限界をつくってしまえば、一歩も進歩することはできない。」(1965年3月第13回経営研究会にて)

天地自然の理にしたがい、志を持って、なすべきことをなしているかぎり、人間には不可能はないのである。不可能がありとすれば、それは自分で不可能にしているのだろう。」(「指導者の条件」p.191)

世間は誰ひとりきみの成功を邪魔したりせんよ。やれないというのは、外部の事情というよりも、自分自身に原因があるものなんや。外部のせいではない、理由は自分にあるんだということを、常に心しておく必要がある。」(「成功の法則」江口克彦著p.23)

そして、このことは、先に述べたように、最近の脳科学の知見からも裏付けられているのである。不可能にしているのが、他ならぬ自分自身であるならば、人間には“無限の可能性”が与えられているとする人間観を心から信じて、自己イメージを拡げ、“制約された自己イメージ”と自ら置いた“限界”を手放すことで、そこから自由になることができる。そうすると、“できない”との“とらわれ”から抜け出して、“やるだけやってみよう”との意欲も湧いてくるし、少なくとも一つの“可能性”をも自ら放棄することなく、すべての可能性を試してみようとするから、少なくともそうでない人よりも、より実現に近づくことができると言える。

サッカーのワールドカップ日本代表として活躍する本田圭祐氏は、このような松下幸之助の考え方に近い考えを持っている。曰く、「この世に天才などいない。才能の差はあるが、若干にすぎない。僕よりも才能のある選手はいる。しかし、その差をどう見るか、大きいと見るか、あるいは、超えられるものと見るかは自分次第だ。自分の限界を決めてしまって挑戦することを止めてしまう。だから夢が叶わない。大きな夢を持ちたい。頑張れば叶う可能性がある。頑張るか頑張らないかは、自分が決められる。頑張るつもりがないなら、夢が叶うわけがない。それを目指すかどうかは、自分次第だ。」

本田選手は、自分は足が速いわけではないし、世界の一流選手に比べて必ずしも突出した能力があるわけではないと言う。しかし、少なくとも自ら“限界”を置かず、自分より優れた選手との差も“致命的なもの”ではなく、“若干にすぎない”と捉えて、頑張ることを“選択”し続けるのだ。本田選手は、“居心地のいい安心できる領域”に安住せず、オランダからロシア、そしてイタリアへと常に自分を敢えて新しい過酷な環境に置き、その中から課題を見出し、必至にもがく中で自分を成長させてきたと言う。その強靭な精神力の源は、“自分の可能性”を信じて、“前向きな心の持ち方を選択する”ことにあると言えよう。

 では、この人間観を“他人”に当てはめるとどうなるか?

例えば、私たちは、自分の部下が何か失敗をしたときに、どのように反応するだろうか?「彼にはやはり無理だ」「彼はダメな奴だ」と知らず知らずのうちにレッテルを貼っていないだろうか?

この点、松下幸之助は次のように述べている。「ともすれば、限られた面だけを見て、人の長短を判断し、あれは有能な人材、これは無用の存在といったふうにきめつけてしまいがちである。」(「指導者の条件」p.107)

しかし、たった一度の失敗だけでは本当のことはわからない。失敗の原因は、前提条件や環境など彼以外のところにあったのかも知れないし、彼にあったとしても、治すことのできるものかもしれない。それは必ずしも根拠の十分でない、勝手な“思い込み”による“決めつけ”であることが多い。

そして、一旦その人に誤ったレッテルを貼ってしまうと、その後の彼との人間関係は、そのレッテルを前提としたものに収斂して行き、遂にはそれに“固定化”してしまう。つまり、その部下を「彼は、こういうことのできない奴だ」という前提で、その人に接することとなり、その種の難しい仕事を彼に任せようとしなくなるし、次にまた失敗したときには、やはり原因は彼にあるとさらに“決めつけ”てしまうこととなる。

しかし、もしそのレッテルが間違っていたならば、その部下の再挑戦する機会を奪い、部下が弱点を克服し自ら成長する可能性を奪ってしまうことになる。その結果、彼は、相当強い自尊心を持つ例外的な場合を除いて、自信を失い、自己イメージを自ら制約して、本当にレッテル通りの人間に近づいていくのである。

「人間には無限の可能性がある」と信じるということは、このように自分勝手な“思い込み”で“他人”に“レッテル”を貼って、“他人”に“限界”を“創り出す”ということをしない、“他人”に対しても、“自分”と同様にその“無限の可能性”を信じ、誰にも必ずその人独自の“持ち味”あるいは“長所”があるはずだと信じて、それを探して見出し、活かして行こうとするということである。

この点、松下幸之助は、次のように述べている。「私は、人間はあたかもダイヤモンドの原石のごときものだと考えている。~人間は誰もが磨けば夫々に光る、様々なすばらしい素質を持っている。だから、人を育て活かすにあたっても、まずそういう人間の本質というものをよく認識して、それぞれの人が持っている優れた素質が生きるような配慮をしていく。それがやはり基本ではないか。もしそういう認識がなければ、いくらよき人材がそこにあっても、その人を人材として活かすことは難しいと思う。」(「人を活かす経営」p.14)

Copyright © 2016 Yuki Miyazaki All rights reserved.

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